タイトルイメージ 本文へジャンプ
虹   中谷宇吉郎

 英国の名画に「盲いたる少女」という絵がある。ジョン・イヴェレット・ミレースの作である。

 この絵には、美しい虹が描いてあって、一度見た人には、その虹の印象がながく残るので、一寸忘れがたい絵である。

 絵が今手もとにないので、はっきりしたことは言えないが、たしか英国の田園の風景で、美しいが人気のない淋しい草原の手前に道があって、そこに旅芸人の若い娘が二人腰を下ろしている図柄であったようにおぼえている。姉らしい娘が盲目である。それに妹がよりそって、二人で草の上に腰を下ろしている。二人とも貧しい身なりである。

 草原の向こうに森が描いてある。そしてその森の上から、暗い鼠色の空に、二本の虹が立っている。その虹の色が素晴らしく綺麗で、画面の中に輝いている。妹がふり返ってその虹を見て、姉に何か言っているが、盲いたる姉はその虹の美しさを見ることも出来ず、手風琴を膝の上にもったまま、じっと前を向いたままの姿勢でいる。親のない娘たちであろう。貧しく不幸なこの二人の中でも、特に虹の美しさを眺めることすら出来ない「盲いたる少女」のあわれさが、しみじみと出ている絵である。

 ところで、この二本の虹に、一寸した逸話がある。美しい光の強い虹あ出る時には、よくその上に大きい第二の虹が現れることは、皆さんも知っているであろう。二本の虹が立つ時は、内側の第一の虹は光が強く輝いているが、外側の大きい虹、すなわち第二の虹の方はそれよりもずっと光が弱い。この絵の虹も、そのとおりに描いてある。ところが、もう一つ問題がある。それは色のことである。

 虹はスペクトルの七色を現していると、一般には思われている。そして虹といえば、誰でもすぐ「虹の七色」という言葉を思い出す。実際は虹の色とスペクトルの色とはちがうのであるが、その話は後にして、問題は、第一の虹と第二の虹とは、色の配列が逆になっていることである。第一虹は赤が外側で菫色が内側にあるが、第二虹は、菫色が外側にある。どの虹でも、必ずそうなっているので、また、そうならなければならない理由がある。

 ところでミレースが初めにこの絵を描いた時は、ついうっかりして、第二の虹も、第一の虹と同じように、赤を外側にして描いたのだそうである。それが問題になって、いろいろ議論があったということであるが、結局第二虹だけ色を塗りかえて、菫色が外側にあるように描きかえた。今日われわれが見る複写の絵は、もちろん描きかえた後のものである。

 第一虹は赤が外側にあり、第二虹は菫が外側にあることは、中等程度の物象でも、教わることである。そういう簡単なことを間違えるのはおかしいという人もあるかもしれない。そしてそういう人たちの中には、虹のような分り切ったことをまちがえるのはなどという人もあるであろう。しかしそういう人たちも実は虹のことなど余り知らない方が多いのではないかと思われる。というのは、虹の現象が、普通の教科書にある説明で全部すんだと思ったら、大変な間違いであるからである。今度虹が出た時に、よく注意して虹を見てごらんなさい。第一に、虹は七色といわれているが、本当は赤橙黄緑青藍菫の七色が全部この順序にならんでいる虹などは、滅多にないのである。普通によく見られる虹には、赤と黄とが特に綺麗に見え、青色はほとんどないものが案外多い。そうかと思うと、赤色がきわめて淡いものもある。又黄色と緑色が幅が広く、赤と菫が細いものもある。「虹の七色」というのは、スペクトルの七色とは違う。「七色」という言葉にだまされて、皆がすべての虹にスペクトルの全部の色の配列があるように、ぼんやり考えているだけである。七色の虹などはそういつもあるものではない。一度でも本当によく自然を見た人には、虹の色というような分かり切ったことにも、すぐ疑問が出て来るはずである。それが当然なのであって、実は分り切ったことではないのである。

 それから、綺麗な濃い虹を見たときの記憶を思いだして下さい。第一虹の内側にすぐ接して、少し光の弱い細い虹が幾筋も出ているのを見た経験がありましょう。この余分の虹は赤と緑とが特に目立って、それが二重にも三重にも見えることが多い。この虹はまれに見えるものではなく、光の強い虹では、いつでも見られるので、これも虹の本体のうちの一つなのである。これを「余り虹」ということにしよう。余り虹は第一虹の内側に見られるばかりでなく、第二虹の外側にも見られる。もっともその方は第二虹よりもさらに光が弱いので見えない場合もかなりある。しかしそれもいつでも見えるはずのものが、光が弱いので見えない場合があるというだけである。それで虹のげんしょうがすっかり分かるには、こういう余り虹の出来ることも、説明できなければならない。

 余り虹の存在に気がついた人の中には、さらに進んで、空の明るさにちがいがあることに注意された人もあるだろう。第一虹の内側の空は、全体として明るく、第二虹の外側の空も、それよりは少し暗いが、全体に薄明るい。ところが、第一虹と第二虹との間の空は、薄墨を塗ったように、はっきり暗くなっている。この空の明るさのちがいも、やはり虹の現象の一つのあらわれである。赤や緑の美しい色の輪があらわれるのが不思議ならば、空の明るさがちがうことも不思議なのである。美しいとか、目立つとかいうことは人間の感情の問題で、自然現象自身としては、少しでも説明されないかわったことが残っていれば、現象が全部分ったとは言えない。




 それから、これは普通には一寸気がつかないことかもしれないが、虹の形にも問題がある。虹は従来の教科書の説明とおりとすれば、完全な円形で、幅も一定していなければならない。ところが、実際に現れる虹について、よく調べてみると、完全な円ではなく、少し楕円形になるか、或いは少しひしゃげているものがある。幅も実際は虹によって少ずつちがう。特に一本の虹についてさえ、ある部分は幅が広く、他の部分が幅がせまいというようなこともある。その説明として虹の原因である小水滴の状態が、空の場所によってちがうので、虹の状態も場所によってかわるのだと説明する人もある。しかし水滴の状態がどうちがえば、虹の形がどうかわるかということが分らねば、説明にはならない。

 こういういろいろな現象を、順を追って説明してみよう。そして中学校の教科書にまでのっているくらい、分り切ったことと思われている虹の現象が、なかなかそう簡単なものではないことを、知っていただくことにしよう。

 まず順序として、教科書にのっている虹の説明から始めることにする。

 虹は太陽から来る光が、雨滴で反射屈折されて、その際に雨滴がプリズムの作用をして日光がスペクトルに分解するために出来る。これが虹の原理であって、この原理自身にはちがいはない。ところが虹の原因である雨滴は、空一面にあるので、何故空一面が光らなくて、円形の帯状の部分だけが光るのか、すなわち虹となるのかということから考えてみよう。それに色がつくことは、その次の問題とする。もし太陽から来る光が、唯一色の光であったら、虹はその色だけの帯状の円になるはずである。実験室の中で、単色の光、例えば黄色の光を送って虹を作って見ると、黄色の虹が出来ることは、実験で確かめることが出来る。

 太陽から来る光は、水滴にあたると、一部は反射するが、大部分は屈折をして水滴の中に入る。それが水滴の中で反射して、今一度屈折をして外へ出る。第2図が、その一番簡単な場合である。第2図に見られるように、太陽から来る光は平行光線であるが、水滴をとおって出る光は、平行光線にはなっていない。それで唯これだけのことならば、虹は出来ないはずである。第3図で分かるように、水滴は空一面にあるから、どの方向からも、どれかの水滴で反射屈折された光が、見る人のところに来る。それで空一面が明るく見えるだけである。


 ところが平行光線が水滴で反射及び屈折をする場合には、特別な性質があることが、光学の理論で分っている。というのは、水滴を出る光線は、平行ではなく拡がっているが、その広がり方は図3のようにはならない。第3図は、わざわざ間違えて描いたものである。水滴内外の光線の通路を精確に描くと、第4図のようになる。水滴にあたる平行光線のうち、P点にあたる光線SPが、矢印の線を通ってRTの方向に出る。ところでその他の光線は、SP線の上にある1・2も下にある3・4も、ともに水滴から出る時はR線の上に行くのである。一寸考えると1・2がRTの上に出れば、3・4は下に出そうなものであるが、そうでないことが、光学の方で証明出来る。それでP点というのは水滴上の特別な点である。この場合何が特別の意味をもつのかというと、光線が水滴の表面にあたる角度に意味があるのである。球面と直線のなす角度は、その点で球面に接する平面とその直線とのなす角である。SPが球面にあたる角度が特定な値である時にRTの方向に出るわけである。SPと同じ方向の光線即ち1・2・3・4等は、水滴の何処にあたっても、その特定の角度とはちがうので、RT方向よりも上向きに出るように屈折が起こるのである。水滴から出る光線は、方向だけを見るとRTの上の方向にだんだん近づいて、又戻るような形になるので、RTの上方向には光線が混んで来る。すなわちこの方向が特に光が強くなるのである。

 

RTの方向は、そういう特別な方向なのであって、この方向と初めの日光の方向とのなす角度は、水滴の大きさには関係がなく、水の屈折率だけできまる。ところが屈折率は物質の性質によってちがうことはもちろんであるが、その外に光の波長すなわち光の色によってもそれぞれちがう。日光の全波長を平均した場合、すなわち白色光に対する水の屈折率は1.333である。その場合について、SPとRTの上とのなす角を計算してみると、42度という値が出る。これが第一虹なのである。そして実際の第一虹について、その角度を測ってみると、大体42度に近いので、虹の説明は一応出来たことになる。

 実際の虹の角度は42度に近いというが、その角度のことを一寸説明しておく必要がある。第4図で円形に描いた水滴は、本当はもちろん球形である。それでRT方向と言ったが、この方向は立体的になっているので、第5図のようにRTを含む円錐の表面が光の強い面になっている。それで42度というのは、円錐表面の切口の線と軸とのなす角度なのである。水滴は空に無数にある。その各々から第5図のように円錐面上に光を出している。そうすると人間の眼には第6図の1234のように、虹が円形に見えるわけである。H地平面で、Oは虹を見る人、Sが太陽の方向である。この場合1234の円弧の上にある水滴からだけ光が来るのではなく、Oを頂点とする円錐面上にあるすべての水滴から光が来ることは勿論である。虹の角度というのは、太陽の高さの角度aと虹の高さの角度bとの和である。それが実測によって、いつでも約42度ということがしられているので、第4図の説明が一応第一虹の出来る理由が分ったことになる。

 第二虹も、これと同じように説明される。第二虹は第一虹の外側にあって、角度は約52度である。これは水滴内で光が2度反射して出来るものである。第7図が水滴を出る光が強くなる特別の方向と、その光の通路とを示したものである。この場合もSP線の上下の光線1・2は、ともにRTの上を出る時に、RT線の下側に行く。太陽からの光の方向と、水滴を出る光の方向とが52.5度をなす時が、一番光が強く、それ以内の角度内には、屈折光は出て来ないことが、光学の理論から証明出来る。52.5度という角度が、実際の第二虹と一致するので、第二虹の説明もこれで一応は出来たことになる。

 

 それでは水滴内で三回反射した虹もあっていいはずだと思われるであろう。それもちゃんとあるので、それどころではなく、四回反射、五回反射のものもある。しかしこの第三虹と第四虹とは、ともに太陽に向かった方向に出来ることが計算で分る。太陽に向かった方向では、せっかく虹が出来ても、太陽からの水滴を通ってくる光が強いので、空全体が光って、虹の存在は見えない。第五虹は計算の結果、丁度第二虹と略一致する角度で出来、光も著しく弱いので目には見えないのである。第二虹の余り虹は、この第五虹とは全然別のものである。

 以上で第一虹と第二虹との出来る原因が一通り分かった。但し日光がスペクトルに分解される点、すなわち虹二色がつく点については、全然ふれなかった。その説明にはいろう。

 

 それは案外簡単に説明出来るので、日光は赤、橙以下七色の光の混合である。もちろん七色というのは代表的な色を指しているので、実際は色は赤から菫まで連続的に変化しているのであるが、説明の便のために七色としておく。水の屈折率は前にも言ったように、光の色によって異なるので、赤色光に対しては1.331であり、以下菫色に向かうにしたがってそれが大きくなり、菫色光では1.344である。第8図で、Pにあたった混合光のうち赤はRTの上の方向に一番光の強いところが出来、菫はR'T'の方向にそれが出来る。屈折率から計算すると、赤は42度22分、菫は40度36分に出る。第二虹では、赤は50度24分、菫が53度36分と計算される。赤と菫の角度の大小が、第一と第二とでは逆になっている。第一虹は外側が赤、第二虹は外側が菫になっているのは、このためである。屈折率はスペクトルの七色の順にかわっているので、この説明では虹の色の配列は、どの虹でも一定で、スペクトルの七色をもっていて、しかも各色の幅もそれぞれどの虹でも一定でなければならないことになる。それから第9図で分るように、第一虹は幅がいつでも1度46分、第二虹は3度12分ときまっているはずである。ところが困ったことには、前にも言ったように、実際の虹は、時によって幅が広かったり狭かったりするし、スペクトルの七色を全部揃えている方がむしろ珍しいのである。それで以上の説明、すなわち普通の教科書にかいてある説明では不十分であることは明白である。

 

 

 虹の幅の広さや、色の配列の方は一寸困るが、前に言った空の明るさのちがいは、今までの原理で説明が出来る。その方を先に片付けておこう。第10図に於て、水滴から出る光のうち、強い方向を長い線、弱く分散する方向を短い線で示しておく。第一虹の内側にある水滴について考えてみる。それ等から出来る弱く分散する光のうち、丁度うまく角度に合ったものは、O点に届くことは図からすぐ分るであろう。そういう水滴は第一虹の内側には無数にあるので、この部分は一様に明るく見える。第二虹の外側にある水滴についても同様である。それ等の光の来る道筋は点線で示した通りである。

 

 

 ところが第一虹と第二虹との中間にある水滴から来る光は、どうしてもO点へ来ることは出来ない。第11図に見られるようにA・Bの水滴から出る光は、強いものも弱い分散光も、みなO点をはずれてしまう方向に向いている。それで第一虹と第二虹との間の空間からは、虹の原理である反射屈折によって人間の眼にとどく光は、弱い分散光まで入れて考えても、全然ないことになる。それで他の部分にくらべてずっと暗いのである。少し明るさをもっているのは、これ以外の光の散乱によるのである。これで空の明るさのちがいは説明されたことになる。

 

 

 それでいよいよ残された問題、すなわち虹の幅や色の配列、余り虹などの説明にはいることにしよう。ここで全く新しい方向から考えを進める必要がある。問題は今までの説明では光線を全部矢印の線で示したことにある。しかし光は実は波であることは、皆さんも知っているとおりである。それで厳密に言えば、光の現象は全部波で説明しなければならないのである。たとえば、一点から出た光がレンズで焦点をむすぶ現象を普通は第12図(a)のように説明する。しかしこれは同図(b)のように描くのが本当である。しかし波面を一々描くよりも、波面への垂直線、すなわち光波が進行する方向を矢印の線でかく方が簡便であるから、それで間に合う範囲は、例えばレンズなどの場合には、線であらわしておくのである。光波の波長は一粍の千分の一以下の短いものであるから、大抵の場合は、波の性質はあまり問題にならない。しかし水滴が非常に小さくなり,雲の粒のように百分の一粍程度になると、どうしても光の波の性質を考えに入れなければならなくなる。今までの説明に出てきた虹の原理には、水滴の大きさは問題になっていなかった。それでこれまでの説明で不十分な点は、光を波と考えることによって補足する必要がある。余り虹の出来る理由なども、実は光を波と考えて、それが小さい水滴で反射屈折をする際に干渉が起きるためであるとすると、よく説明が出来るのである。

   

 第一虹の成因を光と波と見て今一度考えて見よう。第4図のSP、RTの上線だけを考えて、それに光波の波面を描き込んでみると、第13図のようになる。しかしこれだけならば何も新しいことは出て来ない。平行線の波面は、進行方向に直角な平面であるということを描きこんだだけのことである。ところで、この場合に、水滴が非常に小さくなって、その半径に対して、波長をほとんど零に近いとみなすことが出来ないような場合には、平行光線すなわち平面波が水滴に入っても、Rから出る時には平面波の形では出て来ない。第13図のAB波面は、第14図のAOBのような形になることが、光を波と見る理論から出て来るのである。AOBという曲面の曲がり方は、水滴の半径と水の屈折率とできまることが計算から分る。そして水滴の半径が大きくなるに従って、この曲面は平面に近づくのである。それで今までの考え方は、水滴が大きい場合にだけあてはまるものであることが分る。AO間は波面は凸面であって、光は発散することを示している。OB間は波面が凹面になっているので、光が集れんすることになる。それでこの部分の光は、第15図のF点に焦点を結ぶはずである。そしてF点より先きは、発散光になる。すなわち波面は凸面になる。第15図で示したように、水滴から少しはなれたところでは、O'A'とO'B'の二重波面になる。そして二重波面にはいつでも光の干渉という現象が伴う。

 

 

 一連の光の波について、山と山とが重ると強くなり、山と谷が重ると互いに打消して弱くなる。これが光の干渉である。第15図に於て、A系の波とB系の波とを、それぞれ山を実線、谷を点線で描いてみる。RTの上の方向には山と山とが重るので、光は強くなる。この方向は、光学の方でいう正面になっているので、光が特に強く、前に説明した42度の円錐面に相当する。ところが同図の2及び4の方向にも、干渉によって光が強くなるところがある。図では実線と実線、点線と点線がそれぞれ重っている。それに対して、実線と点線とが重なる方向、即ち山と谷が重って光が弱くなる方向がある。1及び3の方向がそれである。この干渉のため第一虹の内側に、すぐつづいて、円形の光帯が二三本見えることになる。それが余り虹なのである。干渉による光は焦面をはなれるに従って弱くなるので、普通は二、三本見えるだけであるが、まれには六筋もの余り虹が見えたという例もある、

 以上の説明は干渉について大体の様子を述べただけである。くわしくは第15図の2や4の方向が、角度にしてどれだけか、又Oの方向が前述の42度と完全に一致するか否かなどを、数値で出す必要がある。エアリーという英国の天文学者がその計算をして、第一虹は光を線と見て計算した場合より少し小さくなることを明らかにした、光を線と見るか波と見るかは、結局水滴から出る波面が平面であるか曲面であるかということに帰する。そしてそれが曲面になるのは水滴が小さい場合である。従ってエアリーの計算でも、水滴が大きい場合は、一番光の強い方向はほとんど前述の42度に一致し非常に小さい水滴の場合にそれよりも2、3度小さくなることが分かったのである。光を波として取り扱って、初めて水滴の大小が問題になったわけである。こういうことが分ったので、虹が完全に円形でない場合の説明もつくことになった。すなわち天空の一部に大きい雨滴の場所があり、谷小さい雲粒の場所があれば、虹はごく少しではあるが、いびつになっても差しつかえないのである。

 以上大分複雑な説明になったわけであるが、それでもまだここまではRTの上という一方向についての話である。すなわち単色光について説明したわけである。実際には、第15図に描いたような絵を、赤、橙……以下七色についてそれぞれ作り、それ等を少しづつ方向をかえて重ねて描いたものが、スペクトル作用まで入れた虹の説明である。そこまでいって初めて虹全体の説明が出来ることになる。しかしそれ等の計算を根気よくやったとしてら、それで虹の現象が完全に解明されるかというに、それでもまだ大切な要素が一つ抜けているのである。

 余り虹はいつでも出来るのであって、第一虹の内側に何本も出来る。ところで第一虹と最初の余り虹との間隔、といっても角度のことであるが、それが問題である。第一虹の幅は、前にも言ったように1度46分ある。それで第一虹と最初の余り虹との間隔が、これ以上あれば、光の強い七色の第一虹が出来、その内側に接して、やはり七色をもった光の弱い余り虹が出来る。余り虹は普通二重或いは三重くらいまで見える。ところで第一虹と余り虹の間隔は、水滴が大きい場合は狭く、水滴が非常に小さくなると、広くなることが、干渉の理論から分っている。それで水滴が小さい場合は、今言ったように、完全な第一虹が出来て、その内側に余り虹が出来る。

 ところが水滴が相当大きい場合は、第一虹の幅よりも、第一虹と余り虹との間隔の方が狭くなるので、余り虹の赤に近い部分が、第一虹の青に近い部分に重なってしまう。そうすると、ちがった色の光が重ることになる。そこでちがった色の光が重るとどういう色になるかという問題が出て来る。これは絵の具の色を混合するのとは全然別の話である。例えばスペクトルの赤色光と緑色光が重ると、どういう色の光になるかというようなことをしらなければならない。赤色光と緑色光は波長が異なるので、その二つの光を重ねても、波長がどうなるということはない。すなわち光の性質としては、あくまで赤色光と緑色光との混ざったものである。しかしそれが人間の眼には全然ちがった色の光に見えるので、この場合は黄色に見えるのである。もっとくわしく言えば、赤色光と緑色光とが、同時に人間の眼の網膜を刺激すると、黄色に感じるのである。もっとも赤色光と緑色光との強さの割合が適当である必要があるが、巧い割合に混合されていると、目の感覚にはスペクトルの黄色光とほとんど区別がつかぬような黄色に見える。

 天然に実際に見られる虹には、この種類のものが案外多いのである。余り虹の赤色部が第一虹の緑色部に重ると、その部分が黄色に見える。ところが第一虹の緑の外側には、本来の黄色部があるので、第一虹の黄色部分がひどく幅が広くなって見えることになる。これは水滴の比較的大きい時に起こる。それで夏の夕立がさっと晴れ上がった後に立つ美しい虹の場合などには、よくこの主の虹が見られる。水滴の大きい時の方が、虹がはっきりと美しく輝くことが多い。夕立のあとの見事な虹を思い出してごらんなさい。赤と黄色とがひどく目立って美しく、緑や青の部分が少ないものを見た経験があるでしょう。

 水滴の大きさは時によっていろいろにことなる。それで虹の色の配列状態も、虹によてってさまざまにちがっても、ちっともさしつかえないのである。むしろちがう方が当り前といった方がよい。

 ここまで来て、やっと最初に問題にした虹のいろいろな性質が、一通り説明出来たことにある。虹の出来る理由はときかれた時に、大抵の人は一番初めに言った反射屈折の作用を述べるであろう。学者でないのだから、それも仕方がないのでそれだけでも知っていたらよい方と言わねばなるまい。しかしそれだけならば、虹はスペクトルの七色をもっているはずなのに、実際は赤と黄色とだけがひどく目立つ虹がしばしば現れる。それをよく見ないことがいけないのである。実際の虹をよく見ないで、虹は七色と思いこんでしまうのは科学の心に反していることなのである。

 自然というものは、非常に複雑で、不思議なことにみちみちているものである。虹などは、その中でも比較的簡単なものであるが、それでもこれだけの説明をひつようとした。実はこれでもまだ問題は残っているのである。こういう複雑な現象を一つ一つ明らかにして行く時に、はじめて人間は自然の美しさを本当に理解出来るのである。

 「虹は水滴の反射屈折によるスペクトル作用さ」と言って、それ以上実際の虹を見ない人がある。そういう人には虹の美しさは分らない。学問によって眼をあけてもらうかわりに、学問によって眼をつぶされた人である。虹の美しさを見ることの出来ない「盲いたる少女」には、誰でも心から同情するであろう。自然に對して自分で眼をつぶっている人々も、別の意味で叉気の毒な人たちである。


中谷の「虹」は、「にじ」に掲載された後に、「霧退治」(岩波書店:昭和25年)に収録され、中谷宇吉郎全集にも収録されている。霧退治以降の版では、書き出しのミレースの絵についての話で「絵が今てもとにないので、はっきりしたことは言えないが、たしか」という部分が削除されている。また、ほんの中の一つの話であり、図番号が本を通してつけられているために、上記とは異なっている。
なお、上記の中谷の解説の最後の段落は、霧退治版で初めて現れるもので、「にじ」版は最後から一つ前の段落で終わっている。