イカと液晶
Webや書籍で、液晶ディスプレイに使われている液晶はイカから作られているという話を目にすることがあります。この話は正しいのか、そして、どのように発生して伝播したのかを取り上げます。
4種類の話とその起源
ディスプレイに使われる液晶がイカから作られている話には、バリエーションがあります。まず、原料とするイカの部位について、イカ墨説と、肝説があり。そして、イカ液晶を用いたディスプレイにとして、通常の液晶ディスプレイ説と、画期的なカラーテレビ説があります。2×2で4通りのバリエーションがあることになります。以下、それぞれの主張について、その起源を検討することにします。
原料
原料について検討する前に、ここで対象となる液晶物質について紹介しておきましょう。現在では液晶となる物質は数万種以上知られていると思いますが、ここでの対象は、その中の1系統、コレステロールとカルボン酸(食酢の親戚群)が結合したコレステロール誘導体です。そのコレステロール部分に動物から抽出したコレステロールが使われています。
では、イカのどの部位が使われていたかというと、肝臓を主体とした内蔵部分で、イカ墨ではありません。イカから液晶を作っていたのは、函館にあった日本化学飼料という会社だったのですが、この会社は、スルメやソフト裂きイカなど、内臓を使わないイカ製品製造時に出てくる廃棄物(イカゴロ)などから、肝油や飼料を作っており、その中に出てくるコレステロールを使って液晶材料を作っていました。実は、原料はイカである必要はなく、魚油も原料になります。
コレステロールの抽出元は海産物である必要はなく、それよりはラノリンから生成されたものの方が工業的には多く用いられていたようです。話はずれますが、最初に液晶として報告された物質もコレステロール誘導体ですが、原料はラノリンではなく、胆石が使われていました。
イカ墨が液晶の原料であるとか、液晶となるという話については、明白な起源となる文研は見つけられていません。1994年、4月15日号の週刊ポストの「メタルカラーの時代」で山根一眞氏が「イカの墨が液晶だと聞いたことがありますけど?」と発言しているので、この時代には流布していたことは確実ではあり、また、1989年12月号のあさりよしとお氏のまんがサイエンスにはイカ墨が液晶であるとの誤解を招く可能性のある図があるのだけれども、それ以上の資料は発掘できていない。
液晶テレビの方式
続いて、イカ液晶を使った液晶ディスプレイの方式について紹介しよう。コレステロール誘導体は室温では通常の結晶で、誘導体の種類によるけれども、100℃程度の温度で、コレステリック液晶となる。コレステロール誘導体は無色透明だけれども、コレステリック液晶状態では温度により特定の色調を示す(選択反射)。選択反射の色調を電場によりコントロール出来れば、原理的にはカラー表示ができるはずである。このアイデアは大昔に発案され、現在に至るまで実現されていないし、実現される気がしないものなのだけれども、いまだに見かけることのある話である。
知る限りで、このタイプのディスプレイの初出は足立倫行氏による「イカの魂」(1985年11月)で、その中で上記の日本化学飼料の工場長との話の中で
色彩変化の特性が瞬間的に制御できるようになれば、問題のテレビ、紙と同じ厚さのカラーテレビも夢ではないのだ(現在市販されているテレビ付き腕時計やポケット・テレビは液晶を使っているが、これはデジタル時計などのモノクロ液晶に三原色のカラーフィルターを被せたもの、カラー液晶とはまったく異なる。)
との記述がある。

もう少しさかのぼった情報はないかと調べたところ、オール生活1979年11月増刊の新型商売特集号に「温度で七色に変化する”液晶”アイデアで用途は無限」という記事があるのだけれども、その中の可能性のある用途には、カラーテレビは出てこないので、1979年から1985年のどこかで、カラーテレビというアイデアが吹き込まれた物と思われる。吹き込んだであろう人は頭に浮かび、本人に函館の会社の人と会ったことがあるかは尋ねたことはあるのだけれども、覚えてはいらっしゃらなかったので、確認はできていない。
このカラーテレビの話とは別に、通常の液晶表示(上の引用にある「モノクロ液晶」にイカが使われているという話については、現時点で確認できている最も早い文献は、1989年9月15日号のLogin(ログイン)で、「ディスプレイお不思議」という特集号の表紙からイカが出てくる。
 その後、アサヒパソコンの1993年3月1日号のカラー液晶の謎に迫るという記事の中にコラムとして、「イカが虹色に輝くまで」という表時原理に関する記事があり、この記事からも、通常の液晶ディスプレイの液晶材料にイカが使われているように理解できる。
液晶テレビにイカ由来の液晶が使われたことがあるか
レノボのFAQサイトには現在(2025/08)でも
質問:ThinkPad の液晶に食べ物の 'イカ' を使用していると聞きましたが、ほんとうですか。
回答:ThinkPad の液晶には、食べ物の 'イカ' などのような海産物は使用しておりません。ThinkPad に使用されている液晶には、「ネマティック液晶」と呼ばれるものを使用してます。イカやタコからも液晶が抽出されますが、これらに含まれる液晶は、「コレスティック液晶」と呼ばれる物です。こちらはアクセサリー等に混ぜて、キラキラと光沢を出すために使用されています
との表記があります。このFAQは2011年最終更新となっていますが、Web上に残っている情報2004年には存在は確認できますし、個人的な記憶では、それ以前から存在していました。回答によれば、液晶ディスプレイの液晶はネマティック液晶で、それに対してイカやタコから抽出されるのはコレスティック液晶で、用途が違うとされています。ちなみに、「コレスティック液晶」は「コレステリック液晶」のTypoで日本語入力の「り=ri」を「li」としてしまうと、小さな「ぃ」に変換されるためだと思われます。また、イカやタコから液晶が抽出されると記されていますが、まず、タコが材料になったという記録はありません。これは、タコの内臓が小さなためです。また、イカからも液晶は直接抽出されるのではなく、精製して得られたコレステロールからの合成品です。
細かいことはさておき、このFAQに従えば、イカ由来の液晶とデイスプレイで用いられている液晶は、異なる液晶相なので、ディスプレイには使われていないということになるのですが、実は、ディスプレイに使われるTN型液晶にはキラル物質が添加されており、添加剤として歴史的に、コレステロール誘導体(ノナン酸コレステロール)が使われていました。つまり、イカ由来の液晶材料が、主成分ではありませんが、液晶ディスプレイに使われていた可能性があるのです。
では実際に使われたかというと、個人的に調べた限りでは、主たる液晶材料メーカーはコレステロールの原料としてラノリン由来のものか、それが入手できない場合は魚油由来のもの(質はラノリンより悪かったそうだ)を使っていたそうで、イカ由来のものを(明示的に)使ったことはないとのことであった。あるいは、魚油由来の一部に紛れこんでいたのかもしれないが、使われたとしても、少量添加物のごく一部に過ぎないと思う。
イカが液晶テレビに使われたかというと、カラーディスプレイでは、液晶の安定性の問題から、もはやコレステロール誘導体は使われていないので、それ以前の白黒テレビ製品で使われたものがあるかという話になる。製品化されたモノクロ液晶テレビとしては、セイコーエプソンの腕時計型と、カシオのTV-10(1984年)があるのだけれど、セイコーエプソンの製品はゲストホスト型で不斉化合物は入っていないので対象外となる。カシオの製品はTN型なので、何らかの不斉化合物が添加されているはずである。残念ながらカシオに知り合いがおらず確認できていないけれども、主たる材料供給メーカーで使っていない物質をあえて使うとは思えないので、イカ由来の材料を使っている可能性は限りなく低いと考えられる。
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